ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

オーケストラ
Dresdner Philharmonie, Orchestra
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

バイオグラフィー

<ミヒャエル・ザンデルリンク プロフィール>

 ミヒャエル・ザンデルリンクは、近年、同世代の中で最も人気のある指揮者の一人として頭角を現している。
これまでにチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団、ベルン交響楽団、ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団、ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団など有名オーケストラとの共演を重ね、2011/2012シーズンからはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めている。

 2006年から2010年まではポツダム・カンマーアカデミーの芸術監督兼首席指揮者を務め、世界各地のコンサートホールに登場した。
同アンサンブルとは、いくつかのCD録音も行っており、その一つにはソニー・クラシカル・レーベルからリリースされたドミトリー・ショスタコーヴィチの「室内交響曲集」がある。
2010年には、フランクフルト・アム・マインで「スカイライン・シンフォニー」というプロジェクトを立ち上げた。これは、ヨーロッパの主要なオーケストラで活躍する演奏家たちが、ゲーテ大学のキャンパスに集結し、非常に親しみやすくカジュアルな形式で演奏を行うという、特別なコンサート・プロジェクトである。
 ミヒャエル・ザンデルリンクは幼少期よりチェロの手ほどきを受け、音楽の道に進んだ。チェリストとしていくつかのコンクール(ミュンヘンARD国際音楽コンクール、ライプツィヒ・バッハ国際コンクール、マリア・カナルス・バルセロナ国際音楽演奏コンクール)で好成績を収めた後、わずか19歳でクルト・マズアに認められ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席チェリストに就任した。その後、ベルリン放送交響楽団の首席チェリストに就任し、長年にわたり同ポストを務めた。また、チェロのソリストとしては、バイエルン放送交響楽団、パリ管弦楽団、ボストン交響楽団といった、ヨーロッパやアメリカのトップレベルのオーケストラに客演している。さらに、後進の育成にも積極的に取り組んでおり、フランクフルト音楽芸術大学(ヘッセン州)ではチェロ科の教授を、ドイツ弦楽フィルハーモニーでは芸術監督を務めている。


<ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団 プロフィール>
 2010年、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団は創設140周年を迎えた。1世紀を超える歴史の中で、同オーケストラは常に優れた首席指揮者を擁し、世界的名声を誇るソリストや客演指揮者たちと共演を重ねてきた。現在の首席指揮者ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが、2004年に3週間に及ぶアメリカ・ツアーを行った際には、ニューヨークの批評家たちから「世界有数のエリート・オーケストラ」と大絶賛された。これは外国のオーケストラがアメリカで受けた批評としては、異例とも言える高い評価であった。

[草創期]
 ドレスデン・フィルは1870年に創設されたが、この年は奇しくも、ドレスデン市初の市民コンサートホール「ゲヴェルベハウス・ザール」が公式にオープンした年であった。宮廷楽団を前身とし、貴族階級のために演奏を行ってきたシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)とは異なり、ドレスデン・フィルは中流階級の市民の文化から生まれたオーケストラである。
 ドレスデン・フィルのルーツは、「ラーツ・ムジーク」という名の市民アンサンブルが結成された450年前に遡る。宮廷や貴族階級の影響を受けること無く生まれたこのアンサンブルは、以後19世紀後半まで活発な活動を続けていたが、創設当初より、定期的に演奏会を開くための本拠地が無かった。
 しかし1870年、ゲヴェルベフェライン(科学、工学、経済学の知識の普及を目的とした組織)が多目的ホールを建設。この「ゲヴェルベハウス・ザール」の誕生が、ドレスデン・フィルの実質的な歴史の始まりとなった。1870年のオープンから、第二次大戦で破壊されるまで、同ホールはドレスデン・フィルの演奏会場として利用され、新本拠地を獲得した当初、ドレスデン・フィルは、「ゲヴェルベハウス・カペレ」と呼ばれていた。「フィルハーモニー」の名称が最初に使われたのは、1908年「メイン・フィルハーモニー・コンサート」と題した演奏会を行った時である。翌1909年、アメリカ・ツアーを行った際に、「ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団」という名称を用いたことで、この言葉は特別な意味を持つことになり(ちなみにドレスデン・フィルは、アメリカ・ツアーを行ったドイツ最初のオーケストラのひとつ)、1915年からこの現名称が正式に用いられるようになった。ドレスデン・フィルは第二次世界大戦後、いくつかの演奏会場を臨時の本拠地としていたが、1969年に市のダウンタウンに「文化宮殿」というホールが完成してからは、ここを活動の拠点とした。

[名指揮者たちのもとで世界的な名声を獲得]
 ドレスデン・フィルは創設以来、常に名だたる名指揮者たちを迎えてきた。1930年代になると世界的な名声を博すようになったが、これは名指揮者パウル・ファン・ケンペンのリーダーシップに因るところが大きい。この成功は、多くの巨匠たちを同オーケストラに惹き付け、アルトゥール・ニキシュ、ヘルマン・アーベントロート、ハンス・クナッパーツブッシュ、フリッツ・ブッシュ、エーリッヒ・クライバー、ヨーゼフ・カイルベルトなど、そうそうたる面々が客演した。また第二次世界大戦後の再建については、当時の首席指揮者ハインツ・ボンガルツの名が、その他の特筆すべき首席指揮者としては、クルト・マズアの名が挙げられる。

[1990年、東西ドイツの統一]
 1990年、東西ドイツが統一されると、ドレスデン・フィルにも新しい時代が訪れた。旧東ドイツの体制下では多くの制約があったにもかかわらず、ドレスデン・フィルの芸術的レベルは向上を続けていた。その卓越した芸術性ゆえに、同オーケストラは旧体制下においても、世界各地で数多くのコンサート・ツアーを行い得たのである。しかしながら外貨の不足から、国際レベルの芸術的交流を行うことは、事実上難しかった。本当の意味で、ドレスデン・フィルが潜在能力を発揮し、組織的に力を強化できる、新しいチャンスが到来したのは、東西ドイツ統一後のことであった。

[ミシェル・プラッソンからマレク・ヤノフスキへ]
 1994/95年シーズンには、世界的名声を誇るミシェル・プラッソンが首席指揮者に就任。フランスの主要作曲家の作品が重点的に取り上げられるようになった。1999年にプラッソンの任期が終ると、2001年からは彼に勝るとも劣らない名匠マレク・ヤノフスキが首席指揮者の座を引き継いだ。ドイツの伝統文化に造詣が深く、演奏経験も豊富なヤノフスキの就任は、ドレスデン・フィルの歴史の中でも、とりわけ歓迎された出来事であった。

[ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスを迎えて]
2003/04シーズンには、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが首席客演指揮者として招かれ、翌年首席指揮者に就任した。豊富な経験とカリスマ性を持つ彼は、オーケストラと極めて良好な関係を保ちつつ、ドレスデンでのコンサート、海外ツアー、レコーディングなどで、次々と成功を収めていった。彼がまず力を注いだのはオーケストラが長い年月をかけて培ってきた、素晴らしいドイツの交響曲のレパートリーを紹介することだった。これらのレパートリーは、伝説的な「ザクセンの音」とまで呼ばれ、これこそドレスデン・フィルがその世界的名声を勝ち得た所以でもある。
彼の任期の初期に、ドレスデン・フィルはリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』『ドン・キホーテ』 を録音して高い評価を博し、これに続く『アルプス交響曲』『薔薇の騎士 組曲』の録音で、評論家たちからの絶賛を得た。また、ワーグナー、ブルックナー、ブラームス作品の録音や、オーケストラの有名なアンコール曲を集めた作品集『アンコール!』の録音でも、“ドレスデン・フィル版”ともいうべき決定的演奏を残している。

ドレスデン・フィルは、毎年数々の客演や世界各地へのツアーを行い、その芸術的資質を証明し続けている。2004年のフリューベック・デ・ブルゴスとのスペインツアーでは、地元の有力紙「エル・ディアリオ・モンタネス」に「史上最高のドイツ・オーケストラの一つ」と評されたほか、3週間に及ぶアメリカ・ツアーも絶賛を博し、ニューヨークの批評家たちに「世界最高のオーケストラの一つ」と報道された。また、数週間に及んだ2005年の南米ツアーの大成功に続いて、スイス全土での公演(2006年)、アメリカ・ツアー(2008年)、日本/韓国ツアー(2008年)もまた成功をおさめ、フリューベック・デ・ブルゴスとドレスデン・フィルの相性の良さを改めて実証する結果となった。

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