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About 川久保賜紀(連載第3回)

ヴァイオリニスト川久保賜紀のウェブ限定の連載「About 川久保賜紀」第3回。<写真:川久保賜紀 2002年チャイコフスキー国際コンクール ライヴ CDジャケットより>

アメリカの生まれ育ちで、その後ドイツへ移った川久保賜紀。家では日本語で会話していたものの、日本に初めて戻ってきたのは98年のことだった。ちょうど千代田区有楽町にある東京フォーラムが完成し、オープニング公演としてチョン・ミョンフンが指揮するアジア・フィルハーモニーが招かれた時、ソリストとして参加したのである。この時はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾いた。
「賜紀にとってはそれが初めての日本でした。何もかも新鮮な驚きがあったでしょうが、特にコンビニのセブンイレブンが珍しかったらしくて、暇があればセブンイレブンに行ってました。『あんなに狭いのになんでもある』と言って(笑)。アメリカのセブンイレブンはあんなに品揃えが良くないんです」(おばの中山久美子さん)
取材で好きな食べ物を尋ねられ、「メロンパン」と答えたら、行く先々でメロンパンを出されて閉口したこともあったという。まだティーンエイジャーの少女は伸びやかな演奏と明るい笑顔で人気を集めたが、知名度はまだまだだった。<写真(左):川久保賜紀 2002年チャイコフスキー国際コンクール ライヴ CDより> <写真(右):ザハール・ブロン>

転機をもたらしたのは、師であるザハール・ブロンである。ブロンは門下生にどんどんコンクールを受けさせることで知られる。また、実際に弟子が有名コンクールで次々に優勝し、それがまたブロンの教師としての声望を高めていった。
ブロンは川久保にも国際的なコンクールを受けるように勧めた。勧めに従い、2001年のサラサーテ国際ヴァイオリンコンクールで優勝。翌年のチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリンコンクールにも挑戦する。いくつもの重要なコンクールがある中で、日本ではとりわけチャイコフスキー国際コンクールでの成績が、その後の音楽家人生に大きな影響を及ぼす。何人もの生徒を送り込むブロンも必死で、時には練習が足りないと怒鳴られることもあったという。サラサーテ国際ヴァイオリンコンクールの経験があったとはいえ、つわものが揃うチャイコフスキー国際コンクールに挑戦するには、師弟ともに他のコンクールとは違うプレッシャーがあった。
「チャイコフスキー国際コンクールの前にも、ロシアへは何度か行ったことがありました。最初はリューベック時代の仲間だったチェロのアンドリアノフに招かれていったんですが、その頃は今とは環境が全然違っていて、どこかへ行こうとするとタクシーじゃなくて普通の車を突然停めるなど、エニシングポッシブル(笑)。こんなのが走るのか!というようなボロボロの車も走っていましたし。トイレに行けばペーパーはない、時にはドアもない!そのあともブロン先生のマスタークラスでサンクトペテルブルクにも行ったりしたので、ロシアのおもしろさはいろいろ味わいました」
ロシアの意外性を楽しむゆとりのあった川久保だが、チャイコフスキー国際コンクールではトラブルにも見舞われた。ちょうどサッカーの日韓W杯があり、日本対ロシアの対戦も組まれていた。結果は日本の勝利。荒れたサポーターが車を燃やしたり、レストランのガラスを割ったりと大騒ぎになった。リハーサルを終えて会場近くにあるホテルに戻ろうとしたら、「日本人が一人で表を歩くのは危ない」と、日本語のできるロシア人が来るまで足止めされた。その後も安全のため、ホテルと会場間では車での移動を強いられたという。

最近でこそコンクールの模様はストリーミング中継が当たり前になり、どこへいても見ることができるが、当時は違った。川久保はアメリカにいる両親との連絡もままならない2週間を過ごした。
コンクールにはさまざまなドラマがある。だが川久保は、予選、セミファイナル、ファイナルへとふるいにかけられていく間のことは、あまり覚えていないという。
「ファイナルだけは覚えていますね。協奏曲を弾くのですが、チャイコフスキーともう一つ、用意されたリストの中から選びます。私はブラームスを選びました。全然リハーサルの時間が足りなくて、とうとう最後までできないまま本番を迎えたことを覚えています。でもブロン先生は、舞台に出る前『音楽を弾きなさい』とおっしゃってくださいました。演奏後は『よかったよ』って。自分の演奏が終わってから、ようやく他の方の演奏を聴くことができましたね。それまではまったく余裕がなかったから」
コンクールには音楽好きのファンも客席に揃う。耳の肥えた聴衆はとても厳しかった。それでも川久保は1位なしの2位。最高位となった。その時はピアノ部門で上原彩子が女性初、アジア人初の第1位となっている。ヴァイオリンとピアノの両部門で日本人女性が最高位を占め、日本の音楽界は大いに湧いたが、川久保はコンクールが好きではなかったという。
「20代だからできたんだと思います。コンクールって、うまくやれる人にとってはすごくいい場だと思います。でも最近はネットもあるし、コンクール以外でもアピールする機会は増えましたよね」
電話もままならない2週間は、むしろ川久保に集中する時間を与えたのかもしれない。今はコンクール期間でさえ大量の情報が飛び交い、コンテスタントが自分の音楽に集中するのも大変だろう。

チャイコフスキー国際コンクール最高位の実績は、川久保に日本での仕事を広げるきっかけとなった。日本の主要オーケストラと共演を重ねる他、インバル指揮ベルリン交響楽団、K.ヤルヴィ指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団、プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団などの日本ツアーのソリストにも迎えられた。 日本中をまわり、それまで知らなかった母国の姿を知るようになっていく。滞在期間が長くなるにつれて、日本語もうまくなった。アメリカ、ドイツ、日本。音楽家としての行動範囲が急速に広がっていった時代である。

(第四回に続く)

千葉 望(ライター)

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