ロシア国立ボリショイ・バレエThe State Bolshoi Ballet
- オペラ・バレエ
アーティスト・ニュース
- 2020/12/9 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.15 アルチョム・オルチャレンコ、アンナ・チホミロワ
- 2020/12/9 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.14 ネッリ・コバヒーゼ
- 2020/12/8 ボリショイ・バレエ in シネマ Season 2020-2021 配信上映決定
- 2020/12/2 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.13 デニス・ロヂキン
- 2020/11/25 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.12 アンナ・ニクーリナ
- 2020/11/18 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.11 セミョーン・チュージン
- 2020/11/11 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.10 エカテリーナ・クリサノワ
- 2020/11/4 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.9 ウラディスラフ・ラントラートフ
- 2020/10/27 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.8 アルテミィ・ベリャコフ、ダリーヤ・コフロワ
- 2020/10/21 ボリショイ・バレエ 〜ダンサーに聞く 12の質問〜 vol.7 デニス・サーヴィン
プロフィールProfile
ボリショイ・バレエの歴史
・劇場の起源
ボリショイ劇場の歴史は1776年に始まる。この年、検察官で熱心な舞台芸術愛好家のピョートル・ウルソフ公爵が、イギリス人の元アクロバット、マイケル・マドックスとともに、モスクワで初めての常設劇団を創立したのだった。そして1780年にペトロフスキー通りに演劇、オペラ、バレエのための劇場が完成した。
25年後、この建物は当時モスクワで頻繁に起こっていた火災のために全焼し、1825年1月に壮麗な古典様式のボリショイ・ペトロフスキー劇場が新たに開場した。新劇場は前面に8つのドーリア式円柱が並び、前廊の上には4頭立ての馬車を操るアポロのブロンズ像が載っており、オペラ、バレエ専門の劇場となった。
1853年、再び火災が劇場内部を襲い、ヴェネツィア出身の建築家アルベルト・カヴォスが改装にあたった。
・19世紀
ボリショイ劇場では1840年代にグリンカのオペラ《イワン・スサーニン》と《ルスランとリュドミーラ》が初制作された。これらは真のロシア国民楽派の基礎を成す作品である。バレエ、オペラ両方の歴史において同様に重要な存在がピョートル・チャイコフスキーであり、オペラの《エフゲニー・オネーギン》《スペードの女王》、バレエの《白鳥の湖》など、彼の多くの作品がこの劇場で初演されている。
19世紀後半のモスクワとペテルブルグでは、好まれる舞踊のスタイルが明らかに異なっていた。マリウス・プティパのバレエ《ドン・キホーテ》がその好例である。このバレエが1869年12月26日にモスクワで初演されたときには、大胆な構想の色鮮やかな作品だったのが、2年後のペテルブルグでの再演時は、はるかに古典的な構想のバレエに変貌していた。
プティパの教え子で助手を務めたアレクサンドル・ゴールスキーは1900年にボリショイ劇場に採用され、’24年に没するまでバレエ団の基本的なレパートリーの改訂上演を手掛け、それらをより演劇的で現実的な内容に変え、将来のボリショイ・バレエの大成功につながる基礎を築いた。彼がボリショイ・バレエの作品に与えた巨大な影響力は、ジョージ・バランシンがゴールスキーの影響を認めていたように、ソヴィエト時代の振付家にまでおよんでいる。
・ソヴィエト期
1917年の十月革命の後、モスクワは新生ソヴィエト連邦の首都となり、社会主義国での芸術の役割をめぐって論争が起こった。左翼の評論家はチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフといった中産階級の作曲家による作品をレパートリーからはずすように求めた。しかし穏健派の声がその要求を阻止し、初期のソヴィエトでは伝統的な19世紀のオペラとバレエが現代作品とともに上演された。新作バレエにはロシア革命10周年となる1927年初演のグリエール作曲《赤いけし》などがある。この作品の共同振付者のワシーリー・チホミーロフが’24年にゴールスキーの後任としてバレエ監督に就任した後、ボリショイ・スタイルは数十年にわたって発展を続けていく。
当時のソリストの中で突出していたのが、バレリーナのオリガ・レペシンスカヤとサンクトペテルブルグで学び、モスクワで大きな成功を収めたマリーナ・セミョーノワである。残念ながら、当時はこういった偉大なアーティストが国外の舞台に立つ機会はほとんどなかった。
・戦時中と初の海外訪問
1941年にドイツ軍がロシアへ侵攻したことに伴い、ボリショイ・バレエとオペラはヴォルガ川沿岸のクイブイシェフに’43年8月まで疎開した。バレエ団の監督レオニード・ラヴロフスキー(プロコフィエフ作曲《ロミオとジュリエット》の振付者)は、戦後の喪失と再建の年月にカンパニーを建て直すという偉業を成し遂げた。’45年11月、プロコフィエフ作曲の新作バレエ《シンデレラ》がレペシンスカヤの主演で上演され、同じプロコフィエフの《石の花》が9年後に世界初演された。
ラヴロフスキーの最も重要な業績のひとつが、ボリショイ・バレエを初めて西側に紹介したことで、’56年にロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場での公演が実現した。イギリスの観客はソヴィエトの振付スタイルのドラマティックな力強さ、超絶技巧を初めて目の当たりにした。特に絶賛されたのが伝説的なバレリーナのガリーナ・ウラーノワだった。ウラーノワに続いたのがプリマ・バレリーナのマイヤ・プリセツカヤで、ローラン・プティ、モーリス・ベジャール、アルベルト・アロンソといった振付家が彼女のために作品を作っている。
・戦後
ラヴロフスキーは’64年までバレエ監督を務め、彼の後任として’95年まで首席振付家兼バレエ監督を務めたのは、当時37歳でキーロフ・バレエ出身のユーリー・グリゴローヴィチだった。ボリショイ・バレエでの彼の初期作品は、大規模できわめてスペクタクル性に富んでおり、バレエ団の能力を存分に発揮させるものだった。その典型であるハチャトゥリアン作曲《スパルタクス》の’68年改訂版は、大人数による大作で、世界的に高い評価を受けた。この時期の代表的なプリンシパル・ダンサーはウラジーミル・ワシーリエフ、エカテリーナ・マクシーモワ、リュドミーラ・セメニャカ、ナデージダ・パーヴロワ、アレクサンドル・ゴドゥノーフらである。
’95年にウラジーミル・ワシーリエフは芸術総監督に就任し、2000年にアナトリー・イクサーノフがその後任(総裁)となった。
・21世紀
今世紀に入り、劇場のレパートリーにはショスタコーヴィチ作曲のバレエ《明るい小川》など、20世紀のロシア人作曲家の傑作が入り始めた。ショスタコーヴィチの生誕100周年にあたる2006年には、初めて彼のバレエ3作品《明るい小川》《ボルト》《黄金時代》がともに上演された。《白鳥の湖》《ライモンダ》《ロミオとジュリエット》といった全幕作品に加え、ローラン・プティ振付の《スペードの女王》《ノートル・ダム・ド・パリ》、バランシンや現代ロシア人振付家の1幕作品などが、現在のバレエ団のレパートリーを彩っている。
ボリショイ・バレエはパリ、ロンドン、アメリカ、日本、韓国などの海外公演で大きな成功を収めるとともに、国内でも《スペードの女王》がロシア国家賞、《スペードの女王》と《明るい小川》がゴールデン・マスク賞を受賞するなど、活躍を続けている。
’05年9月、劇場のメインステージの改修工事が始まり、その後は新設の舞台で公演が行われた。そして’11年10月28日にメインステージの公演が再開され、以後はふたつの舞台が使われている。
ロシア語の「ボリショイ」が「大きい」「大規模」といった意味であるとおり、ボリショイ劇場はいかなる規格においても巨大である。現在、3000人が雇われており、24作あるオペラとバレエの上演で年間400回以上の公演が行われ、毎晩のように3000人もの観客が集まる。現在のボリショイ劇場は、今後も維持し続けていく芸術的遺産への誇りと、今日の世界の早い変化の中で成長し、発展を遂げなければならないという自覚を併せ持って、前進し続けている。