2016/7/11

ニュース

  • Facebookでシェア
  • Twitterでツイート
  • noteで書く

フェルッチョ・フルラネット、ヘルベルト・フォン=カラヤンを語る

 マリインスキー・オペラ2016来日公演「ドン・カルロ」にフィリッポ?世役で登場するフェルッチョ・フルラネットは、オペラ・ファンの間でも注目のキャスティングとなっています。
 今回は、2014年と少し前の記事になりますが、海外メディアで「フォン=カラヤン」について答えているフルラネットの和訳記事をご紹介いたします。

フェルッチョ・フルラネット、フォン=カラヤンを語る
サン・ディエゴ・オペラのおなじみのスターが、偉大なる指揮者について語ります
(2014年5月1日 ギャレット・ハリスによるインタビュー)

サン・ディエゴ・リーダー誌(以下SDR):
これまでに私が、ほかのどの歌手にも聞けなかった質問、そして今後まただれかに聞くことが、おそらくは不可能な質問があります。それは、フォン=カラヤン氏との仕事というのは、いったいどんなものだったのかということ。あなたはまだそのとき非常にお若かったでしょう?ドイツ・グラモフォンのレコーディングで、レポレッロを歌われたときのことですが。

フェルッチョ・フルラネット(以下FF):
初めてフォン・カラヤンに会ったのは、オーディションを受けた時でした、ええ、そのころ彼にオーディションを申し込むことはもう、ほとんど不可能だったのです。当時私はコロムビア・アーティスツの所属だったので、当時、そして現在も大手のエージェントでしたから、少なくとも彼の母国で私の名前は知られていたはずです。私のマネージャーは年配の素晴らしい女性、ネリー・ウォルターでした、彼女に聞いてみたんです、彼に声を聞いてもらえるだろうか?とね。まずは、無理でしたよ。
同じ年、私のヨーロッパでのマネージメントはミシェル・グロッツ氏の担当になったんです。これが幸いしました。彼は35年のあいだ、カラヤン氏のレコーディング・プロデューサーを務めた人物なので。24時間後にオーディションOK、という話を取り付けてくれたんです。自分はドイツのカッセル劇場に向かって出発、という日でした。そこでフィリッポ2世のロールデビューをしたのです。
カラヤンとのこのオーディションはかなりの冒険でした。午後1時に行われる予定でしたので、正午にはその場に到着しウォームアップしなければなりません。ものすごく緊張しました。ですが1時になっても誰も現れません。2時になっても、誰も来ない。ついに3時になって、やっと私はかの人物が廊下からこちらに入ってくる姿を見たのです。小柄で、髪はきれいに整えてありました。彼は私にイタリア語で ー みごとなイタリア語で ー こう言いました:「そうだ、オーディションの約束だったな。いまヴェルディ・レクイエムのリハーサル中なので、すこし待っていてくれないか、戻ってくるから。」
で、けっきょく、その日の9時になって、声を聞いてもらったのです。うまくいきましたね。そこまで待たされたのがあきらかによかったのです。緊張もなにも、もうあったものではない。とうに限界を超えてしまっていた。彼はやってきて、私をステージに、ヴェルディ・レクイエム用にセッティングされたステージに立たせたんです。

SDR: それは、サルツブルグで、ということですね?
FF: ええ、ザルツブルグ。グローセ・フェストゥシュピールハウス(祝祭大劇場)です。さて彼が「で、君はなにを歌いたいんだね?」と言うので、「ちょうどロールデビュー直前なので、ドン・カルロを歌ってみます。」と答えました。舞台上に私とピアニスト。カラヤンは客席の最後列に座り、よし、ドン・カルロを聴かせてみろ、と。彼の部屋に行き言われたことは「なかなかいい声をしている。音色その他、すべて気に入ったよ。ただ方向性と解釈とが・・・もちろん君には君のものがあるだろうがね。テープレコーダーを持ってきてるか?」
「もちろんです、マエストロ。」
「私がギャウロフ、カレーラスと一緒にやったドン・カルロのカセットだ。これを聴いて、明日の12時にまた来なさい。」
私はそれを聴きました。翌日、彼の事務室に戻り、45分のレッスンを受けましたよ・・・いえ、というより、あのアリアに集中しての指導でした。カラヤンがピアノを弾き、私は歌い・・・歌い終わり、惜しみない褒め言葉をもらいました、そしてこう言われたのを覚えています:今後3年間はドイツレパートリーしか予定が組まれてないんだ、残念だよ。だがね、忘れはしないよ。」
が、その間に彼は病気を患いしかも重篤な症状だったので、私はカラヤンが覚えているだろうとは思いませんでした。しかしぴったり3年後に、バチカンの儀式でのコンサートマイスターとして復帰にむけて待機していた彼から、モーツァルトの「戴冠ミサ曲」を歌うようにと依頼が来たのです。場所はサン・ピエトロ寺院、また、レーザーディス クなど当時考えられるすべてのメディア収録が行われる現場だったのです。さらに「ドン・ジョヴァンニ」のレポレッロ役への依頼というおまけもついたのです。

SDR: 彼との仕事はどのようなものだったのですか?こんにち、あるいは過去数年までを見渡しても、劇場で音楽監督職に在る優秀な指揮者が、自分以外のやはり優秀な指揮者に仕事を依頼することにそれほど関心を持っているでしょうか? カラヤンはしかし、ザルツブルグにバーンスタインを招き、ジュリーニを、ショルティを、また若手ではジミー・レヴァインですとかオザワを集めた。音楽のオリュンポス山のごとき眺めです。こんな場所は世界に二つとなかった。いつもそこに最高の指揮者がおり、最高の合唱がおり、歌手たちが、演出家たちが集ったのです。
FF: まったく、すべてが驚くべき輝きでした。「戴冠ミサ」は最初の公式オファーでした、永遠に忘れませんよ。翌年にはザルツブルグ・”イースター”・フェスティバルに呼ばれましたが、こちらは<夏のフェスティバルに対して>カラヤンのプライベートな楽しみでね、彼は、国の予算に頼らず私財を投じて運営していたんです。公演は2回。ゲネプロが1回と、本公演が1回です。ゲネプロはたぶんテレビ放映されたのでしょう、画面に映るということで、観客がみなタキシードを着ていましたよ。その<イースター参加の最初の>年に私が歌ったのはブルックナーの「テ・デウム」、そして二度目になるモーツァルトの「戴冠ミサ」でした。(ドン・カルロの)フィリッポ2世役のカヴァーとしても呼ばれていたんですね。<本役の>ジョゼ・ヴァン=ダムの体調が思わしくなく、まあ、悪いままだったとしても、カヴァーの自分がステージに上がることはないだろうと思っていました。いざとなればギャウロフ<ニコライ・ギャウロフ>だってライモンディ<ルッジェーロ・ライモンディ>だって飛んでくるでしょうし、若い サミュエル・レイミーだっていましたからね。
さて、ことが起こる前夜、公演の最中、たしかにヴァン=ダムの調子は最悪だった。でも私は何事もなく布団にもぐり、寝てしまいました、「まあ明日になれば、ミスター・ギャウロフがすでに到着してて、彼が歌ってくれて、万事まるくおさまるさ。」って自分に言いながらね。本当に岩のように寝てしまったんです。で、10時にホテルの電話が鳴って、歌うことになったからすぐに劇場に来いと言われたんです。ええ、行きました。ヴィデオを見せられて、舞台での立ち位置確認をして、短時間ですが喉をウォームアップして・・・なにしろ1時間前まで寝てたんですからね、声を出しておかなければね。練習室にいる間に、契約書が持ってこられて、あれよあれよという間に衣装の丈を・・・ヴァン=ダムは背が低いんですよ、だから、私に合わせて長くしてね。それから、かつらです。後日それは買い取って、以来、ずっと使っています。ここ、サン・ディエゴでも使いました。
夕方4時15分前には、衣装もつけて、舞台化粧も済んで、カラヤンの部屋に連れて行かれました。このとき彼に言われたことがあまりにも普通ではなかったので、これを忘れることは決してないだろうと思います。その内容はこうです:「この舞台では、歌い出しのキューを絶対外さないようにして、そして、けっして私のほうを見るんじゃない、君はテレビに映っているのだからね。あのときのオーディションで歌った通りにやりたまえ、そうすれば私が君についていく。指揮をするのはもう私じゃない。」彼は、そう言ったのです。なんという・・・「やったとおりに歌いたまえ、私のほうがついていく。」・・・そんなことをする指揮者に、私は会ったことがなかった。その後の12時間で私の人生のすべてが変わりました。翌朝には、世界中の人たちが私の存在を知り、カラヤンに選ばれた歌手だということを知ったのです。これこそが、カラヤンなのです。

翻訳前の記事:Sandiego Reader.com
http://www.sandiegoreader.com/news/2014/may/01/classical-ferruccio-furlanetto-talks-1-3/#

カラヤンの写真:Sandiego Reader.comより
——————————————————-
帝王ゲルギエフ&伝説の劇場が威信をかける2演目
マリインスキー・オペラ 来日公演2016


「ドン・カルロ」
10月10日(月・祝) 14:00/10月12日(水) 18:00
「エフゲニー・オネーギン」
10月15日(土) 12:00/10月16日(日) 14:00

公演の詳細はこちらから

ページ上部へ