2012/12/14
ニュース
ベートーヴェン後期3大ソナタを弾くコンスタンチン・リフシッツ
真嶋雄大(音楽評論)
1991年の初来日以来、多彩な楽曲に対して鮮烈な解釈を示してきたコンスタンチン・リフシッツであるが、最近でも2011年のバッハ「ゴルトベルク変奏曲」、2012年の同「フーガの技法」において、恐るべき音楽的感興を紡いだのは記憶に新しい。
重厚な低音から煌くばかりの高音まで、およそ楽器から飛翔する音像は鮮やかにコントロールされ、潤沢な音楽性に支えられたみずみずしい詩情は四望開豁たる境地を築く。なかんずく弱音は、これ以上あり得ないかそけき息遣いであるにも拘らず、高山が屹立するように格別な存在感に満ちている。そこから生み出される透徹な響きは、滴り落ちるようなロマンを紡ぎ、強烈なデュナーミクの対比はそのまま気宇壮大なダイナミズムを湧出して神韻縹渺たる芸術的高みへと昇華するのである。
そしていよいよ満を持して、リフシッツがベートーヴェンのソナタに挑む。2013年2月6日の紀尾井ホール。プログラムは最後期の「第30番」、「第31番」、「第32番」。リフシッツがベートーヴェンのソナタを日本で演奏するのは3度目である。最初は2004年2月、東京・トッパンホールと大阪・いずみホール。曲目は「第12番」、「第27番」、そして難曲「第29番《ハンマークラヴィーア》」。2度目は今年横浜と名古屋での「第15番《田園》」。
特に《ハンマークラヴィーア》については、リフシッツはステージで演奏するのは初めてだった。ピアノ曲の中でももっとも難曲のひとつとして知られる楽曲である。彼は来日してからも、毎朝5時まで練習を重ねた。さらに本番直前に、80人ほどの小さなホールで、プレ・コンサートを開いたのである。その時リフシッツは、《ハンマークラヴィーア》の第1楽章冒頭にある低音のB♭を、右手で採った。確かに右手で採るピアニストもいるが、本来の音楽的流れからすれば左手で採るのが望ましい。けれどもすぐ跳躍しなければならないため、右手は謂わば安全策。しかしながらその直後、トッパンホールでのリサイタルでは、しっかりとその音を左手で演奏したのである。小さなエピソードではあるが、リフシッツの計り知れないポテンシャルが窺われる。
それに加えて近年は、ヴァイオリニストの樫本大進とのデュオで、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタに比類ない名演を繰り広げている。先ごろリリースされたCDも音楽史に輝く名演であるし、2013年1月から2月にかけ、このデュオによるベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第3番」、「同第4番」、「同第9番《クロイツェル》」の来日公演が予定されているので、こちらも大変に楽しみである。
とは言えリフシッツは、毎年1曲ずつベートーヴェンのピアノ・ソナタに取り組んでおり、世界中で演奏し続けている。特に作曲順という訳ではないが、ベートーヴェンの人生を俯瞰するように、ゆっくりと辿っているのだという。その中で「第32番」は弾き始めて3年になる。けれども弾く度に、あたかも新しい作品を演奏しているような感覚に囚われるそうだ。「第31番」はそれより短く、およそ2年ほど。そして「第30番」は初めて人前で、演奏する。そしてこのソナタこそ、リフシッツはベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲で一番最後に弾きたかった曲であり、それほどにベートーヴェンの本質が注ぎ込まれているソナタだと位置付けているのだ。このソナタにはきわめて課題も多く、責任も大きい。だからこそひじょうに怖いともリフシッツは重ねるのだ。
ベートーヴェンに対するアプローチについて、リフシッツは、ともかく楽譜をとことん読み込むことと、古典的な演奏をたくさん聴くようにしているのだという。楽譜には膨大な要素が潜んでおり、本番直前まで楽譜のチェックをすることもある。そこで今まで気が付かなかったことを発見することもあり、それがその後に大きな影響を与えることもあるのだという。しかしながら、それを考えるのは演奏する直前までであり、ステージに立ったら一切何も考えないのだと言う。そしてそれが理想だと語る。
例えば今回の最後期の3曲についても、演奏中に次はもしかしたらというアイディアが浮かぶこともあるが、だからと言ってそれが確実に良い方向にいくかは疑問である。だからこそベートーヴェンのソナタは危険だとリフシッツは吐露するのだ。
かつてリフシッツは、ロンドンでベートーヴェン「ソナタ第28番」を演奏した。その時客席に、ピアニストのアルフレート・ブレンデルがいた。リサイタルの前半はベートーヴェンの「バガテルOp.126」と「ソナタ第28番」、後半がシューベルトとリスト。その公演後、ブレンデルからリフシッツに電話があった。
ブレンデルはリフシッツに尋ねた。「前半があなただったのか、それとも後半があなただったのか」と。即ち、シューベルトとリストはすばらしかったが、リフシッツのベートーヴェンは危なっかしかったというのだ。けれどもリフシッツにとって、ベートーヴェンの音楽は、特にソナタは危険な箇所がたくさんあって、まるで地雷がいっぱい埋まった原っぱのような感じだと認識している。けれどもその草原を、勇気を持って進まないといけない。だからブレンデルの言葉はリフシッツにとって、反対に嬉しかった。おそらくブレンデルは、リフシッツのベートーヴェンに批判的だったのだろうが、リフシッツにとって、それは称賛だったのである。
ベートーヴェンは、「第32番」を作曲してからまだ数年を生きた。つまり「第32番」をもって、ピアノ・ソナタへのすべての挑戦を完結したのである。リフシッツによる日本でのオール・ベートーヴェン・プログラムは初である。その最後の3曲に、リフシッツはいかなる解釈を示すのか、心躍らせて待つこととしよう。
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ピアノ音楽の新約聖書 ここに極まる
コンスタンチン・リフシッツ ピアノ・リサイタル
2013年02月06日(水) 19時開演 紀尾井ホール
<プログラム>
―ベートーヴェン後期3大ソナタ―
ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111
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