2018/10/11
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エフゲニー・キーシン パリ公演レポート
1ヵ月後に迫った「エフゲニー・キーシン ピアノ・リサイタル」。キーシンがソリストとして出演したエマニュエル・クリヴィーヌ指揮フランス国立管弦楽団の演奏会を中心に、パリ在住の音楽ジャーナリスト・三光洋さんがご執筆くださいました。
前述の4つの楽団の中で、フランス国立管弦楽団はフランス的な音色を保持し続けている。透明で明るくエレガントな音色はムーティのような音の色彩に敏感な指揮者から高い評価を得ている。その新シーズンはブラームスが軸になっているが、音楽監督就任二年目となったエマニュエル・クリヴィーヌ指揮による9月22日の定期演奏会を聴いた。
会場はセーヌ河畔に近く、エッフェル塔を遠望するシャンゼリゼ歌劇場。1913年開場のモダンな建物はパリでも有数の社交場だ。1900人を収容するホールが当日ほぼ満席だったのは、R.シュトラウス「ドン・ファン」、リスト「ピアノ協奏曲第1番」、ブラームス「交響曲第1番」というパリの観客好みのプログラム、強烈な個性を持った実力派エマニュエル・クリヴィーヌの指揮への期待、ソリストのキーシンの人気と好条件がそろったからだろう。
交響詩「ドン・ファン」はベテランのコンサートマスター、リュック・エリやオーボエのソロの音色は華麗だったが、指揮のテンポが速すぎ、演奏がニュアンスに乏しく、予想外の平板な演奏に終わった。
つづいてキーシンが登場し、正副コンサートマスターと握手してからオーケストラに向かって軽くお辞儀してから椅子に座った。「ピアノ協奏曲第1番変ホ長調」は超絶技巧の持ち主だったリストが自ら初演を弾いた作品だが、キーシンにとっては技法面でむずかしい部分はどこにもない。第1楽章初めのカデンツァから破格のテクニックで力強い音を朗々と響かせてオーケストラを引っ張った。シャンゼリゼ歌劇場の音響が乾いているために、音色が少し硬くなってしまったのは残念だったが、それでも自然で余裕たっぷりの弾きぶりで、平土間中央の記者席に座っていたル・モンド紙のマリー=オード・ルー記者も「芸の頂点にあるピアニスト」(ル・モンド紙)と賛辞を惜しまなかった。
わずか数秒の呼吸を置いただけで始まった第2楽章ではきれいな低弦や管楽器のソロがこの楽団ならではの音色の妙を感じさせた。第3楽章での有名なトライアングルとのかけあいも軽やかで音符が宙を自在に舞っているかのようだった。
風邪気味で演奏後に挨拶したところで軽い咳が出るという悪いコンディションだったが、舞台袖まで駆けつけて花束や手紙を次々に差し出した観客三人をはじめとする熱心なファンの歓呼に応えて再度ピアノに向かった。アンコール一曲目は、キーシン作曲「タンゴ・ドデカフォニック」で即興性の強い茶目っ気たっぷりな曲だった。客席に微笑が広がったのを見て、二曲目にショパンの「三つのワルツから変ニ長調(仔犬のワルツ)」を弾き始めたところで折悪しく、二階席の一列目で携帯電話がけたたましく何度も鳴り、周囲の観客が抗議するというハプニングが起こった。パリの観客は劇場がどんなに開演前にアナウンスをして注意を促しても、携帯の電源を切らない観客が後を絶たない。演奏中に咳をし、音が響かないようにハンカチを使うといった気遣いもない人が散見される。音楽への集中度という点でドイツやオランダとはかなり違っているように思われる。
それでもキーシンは眉根一つ寄せることなく、三曲目にアレクサンドル・スクリャービンの佳作「エチュード作品2第1番嬰ハ短調」を情感たっぷりに聞かせてくれた。
休憩後のブラームス「交響曲第1番ハ短調」はテンポが必要以上に速く、楽想が聴き手の胸に広がる前に次のパッセージに移ってしまい、ブラームらしい陰影に富んだ抒情が雲散霧消してしまったのが惜しまれた。
それでもカーテンコールで割れるような拍手が会場を包んだのは、キーシンのピアノを聴いたことに満足した観客が多かったからだろう。ベテランのクリヴィーヌは昨シーズンのフランクの「交響曲ニ短調」といった作品で聞き応えのある密度の高い音楽を聞かせてくれているが、ブラームスとは相性がもう一つなのかもしれない。
三光 洋(音楽ジャーナリスト/パリ在住)
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精神的深まりと重み―。究極のピアニストが築く、金字塔。
エフゲニー・キーシン ピアノ・リサイタル
2018年11月14日(水) 19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
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