2013/12/12
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クリスチャン・ツィメルマン、ベートーヴェン後期三大ソナタへの挑戦 Ⅳ
クリスチャン・ツィメルマンが、ベートーヴェンの最後の3つのソナタを取り組むのは、ある意味で延期された約束のようなものだ。初めに3曲をチクルスで採り上げようと考えたとき、ツィメルマンは作曲家と同じ年齢だった。それから5年ほどの歳月が経ち、いまツィメルマンはベートーヴェンの生涯最後と同じ年齢を生きている。
3曲をまとめて取り組むことに不安を覚えるのだと、ツィメルマンは今回の対話の最初に語った。そうした思いは、3つを連作としてひとまとまりに捉えるようになってから、歳月をかけて、彼自身のなかで次第に深まってきたものなのだろうか?
「異なる構成のなかに置くならば、それはたんにプログラムの一部です。しかし、今回は3つのソナタだけですべてです。ベートーヴェンの人生の非常に限られた時点ということになる。非常に短期間の出来事です。彼は変イ長調ソナタを書き終えてまもなく、3、4週間後にはハ短調ソナタを作曲しています。つまり、これは彼の人生のごく短い時間の話なのです。それから、初稿をベルリンに送った直後に、彼は書き直しと変更を加えます。2年もの間、出版に漕ぎつけなかったのは、彼が始終変更を加えていたからです。それほどに、創作上の葛藤は途轍もないものです。しかも、素材という意味では、彼にとって新しいものではありませんでした。もう20年間も用いてきた素材で、これまでにもそちこちで部分的に用いてきたものでしたから。これらの作品は、新しい思考ではなく、長年持ち歩いていたもので書かれています」。
―これらの作品に取り組むことはある意味、ピアニストとしてのあなた自身のこれまでの冒険を反映するところもあるのでしょうか?
「わかりません……。ある俳優が以前こう教えてくれました。『チェーホフの芝居で酔っぱらいの役を演じなくてはならなくなったとき、私は飲酒を始め、そしてアルコール中毒になった」と。あまりにも近く作品と自分を同一視することは、危険とも言える……。そう、もちろんステージに上がるときは、もちろん私はそうしますよ。クレイジーなことです。
とにかく私はいまちょうど自分と近い年齢のこの人物についてたくさんのことを考えています。かなり年老いていて、突然に死を迎えるのだと、これまでずっと思っていた人のことです。だからとても恐ろしいのです。これはもうトワイライトゾーンなのですよ(笑い)」。
―どうかその黄昏と以後の世界を切りぬけてください。
「このプログラムを演奏するときは、いつもこうした動揺や葛藤のすべてを経験するように自分に強いるわけです。ひとつひとつのコンサートに個別の格闘があり、それからツアー全体としての、積り重なっていく格闘がある。ですが、これが私たちの職業なのです」。
―広大なレパートリーを手がけるあなたが、今回は彼の3つのソナタに集中する決意をなさった。年齢のことはお話しされましたが、いまこの時点でこれらに取り組むことをご自身に強いるのは、他にどんな理由があってのことでしょう?
「まさに年齢の理由からですよ。私は彼を非常に親しく感じますが、おそらくは年齢のためでしょう。私はいまこれらの作品をとても近くに感じます。自分よりも30歳か40歳年上の作曲家の作品を演奏するときには、自分ではまだ経験していない感情について作曲家が語っていることになる。自分の年齢に密接に結びついた作品を演奏することで、どのようにすべきかをよりよく理解することが、きっとできるはずなのです」。
―あるアメリカの詩人がこう言いました――思考と表現の間に人生はある、と。あなたはこの言葉についてどう思いますか?
「まさにその通りです。アイディアとそれを表現することの間には何光年もの隔たりがあります」。
―では、若者だった頃と現在とで、あなたご自身のベートーヴェン理解に関して、もっとも大きく変化したのはどんなことだと思われますか?
「おそらく認識のレヴェルですね。一段深い地層を発見するようなものです。子どもの頃には理解できなかったフレーズを、自分が成長してからくり返してみると、そこにもうひとつの意味が理解できるというように」。
―明らかになってくるのですね、第二、第三の意味の層が……。
「そう、私たちがいま多くのレイヤーについて話しているように」。
―では、さらに広い聴衆に向けて、たとえばこれらのソナタを初めて聴くような聴き手に向けて、なにかおっしゃりたいことがありますか? コンサートに興味をもって足を運んでもらうために。
「これらの作品は、今日の私たちとまったく同じ問題を抱えた人間によって書かれました。問題はなにも変わってはいない。私たちは異なる解決の手段をもっているだけです。現在の私たちはiPhoneやそれに類する道具をもっていますが、しかし問題はまったく同じままなのです」。
―つまり、それは感情や精神的な意味において。
「そうです。彼らの言葉はたんに異なる言語であるだけです。根本的には彼らは同じことを言っていて、それはありきたりの生活を送るふつうの現代人にも理解し得ることです。この音楽のもつ抽象性にたどり着くのに十分にオープンでありさえすれば。
ときに問題は理解しようと努めることにあります。芸術というのは必ずしも理解できるものではないのですから(笑い)。説明したり、語ったり、慣習的な感覚で理解できるものでもない。
ときには、ただ自分を委ねて、この芸術の犠牲者になるだけでいいのです。ムンクの『叫び』を観たとき、有名なほうではなくオスロのある美術館で観たものですが、私は非常に驚き、何週間も取りつかれたようになりました。私にはずっと強烈だったのです。そうして、ある意味で、この絵の犠牲になるわけです。そして、考え始めます――なぜこの人はこの絵を描いたのだろう? どうして彼はこのような表現をとったのか? と。それと同じことです。変イ長調ソナタの悲しみを聴いて、人はこう思う――なぜ彼はこの作品を作曲したのだろうか? この悲しみはどこからやってくるのだろう? と」。
―さて、あなたは思索家であり、ある意味では哲学者のようでもあり、同時に演奏家としては具体的な響きを通じて作曲家の意図や感情を伝えようとしています。こうした二つの異なる役割の間には、どのような関係性があるとご自身では思われますか?
「互いに邪魔はしません。いっぽうは手段で、もういっぽうは本質です」。
インタヴュー・文:青澤隆明
究極のベートーヴェン、ベートーヴェン後期3大ソナタ
クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル
2014年1月20日(月) 19時開演 サントリーホール
ピアノ・ソナタ第30番・第31番・第32番