2014/5/9

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コバケン・レジェンド~小林研一郎ハンガリー・デビュー40周年

小林研一郎

クラシック音楽が生活の一部
 ウィーン、ブダペスト、プラハはいわばクラシック音楽のメッカ。週末にはマチネのコンサートが各所で開かれ、オペラハウスでも児童生徒用に、マチネ公演がおこなわれている。子供でも楽しめるオペラやバレーが中心になるが、ハンガリーのみならず、ヨーロッパでは小さい頃からクラシック音楽に触れる機会は多い。冬が長いヨーロッパでは、オペラやコンサートは秋から春にかけての最大の娯楽である。
ハンガリーには各行政区に国立の音楽学校があり、音楽教育の底辺を支えている。現在日本で売り出し中のピアニスト金子三勇士君も、日本の幼稚園を卒園してすぐにハンガリー人祖父母に預けられ、そこから現地の小学校に通いながら、放課後にヴァーツ市の音楽学校に通っていた。ハンガリーでは年齢ごとの地域コンクールや全国コンクールがあり、小学生時代から金子君はピアノ部門だけでなく、民謡歌唱やソルフェージュで常にトップか、上位3位以内の成績をとっていた。コンクールに児童を引率して参加していた妻から、「日本人ですごい男の子がいる」と聞かされ、それで金子君の居所を探し出して、日本の音楽行事に送りだしたことがある。金子君は13歳でリスト音楽院の英才教育課程に入り、そこを卒業した後に、東京音大付属高校3年に転籍し、その後東京音大を卒業して、今日本で最も売れっ子の若手ピアニストの一人になった。

ブダペストの旧王宮からドナウ河を越えて英雄広場までの3kmほどの大通りは、世界遺産になっている(ブダペスト・マラソンは英雄広場からスタートし、このアンドラーシュ通りを走る)。アンドラーシュ通りのすぐ下に、ヨーロッパ大陸で最初に建設された地下鉄が走っている。地下鉄と言っても、道路から1mほど下がもう地下鉄の天井で、地下電車のような乗り物である。ドナウ河から大通りに入って三分の一ほどのところに、オペラハウスがある。この可愛い地下鉄の「Opera」駅はオペラの正面玄関に位置している。ウィーンのオペラハウス建設から10年ほど後に完成した立派な建築物で、19世紀後半の典型的なオペラハウスである。
秋が終わり、ガス灯のような淡い光を放つ街灯が点るアンドラーシュ通りに雪がちらついてくると、自然に「ボェーム」の旋律が浮かんでくる。それはウィーンでもプラハでも同じ。プロの音楽家でも、プッチーニの「ボェーム」が好きな人は多い。起承転結のメリハリが効いていて、モチーフの旋律が最初から最後まで無駄な遊びなく奏でられ、そこにアリアやドゥュエット、重唱が入る。モーツアルトの「ドンジョヴァンニ」や「フィガロの結婚」が好まれるのも、楽しい旋律がふんだんに盛り込まれていて、誰もが口ずさむことができるから。ヨーロッパではクリスマス前後に必ず「ボェーム」が演奏される。年末にブダペストにいれば、「ボェーム」を聴きに出かける。「ドンジョヴァンニ」もブダペストで繰り返し鑑賞したが、出張の度にオペラプログラムを探し、プラハ、ベルリン、ミュンヘン、ウィーンでも聴いた。
ハンガリー国立フィルの指揮者でもあった故ルカーチ・エルヴィンなどは、パルティトゥーラ(オーケストラ総譜)なしで、暗譜で「ボェーム」を指揮していた。各幕が15-20分程度の短いオペラだから暗譜は難しくないとは思うが、歌の入り方を指示するのはかなり神経を使うはずだ。さすがにそこはプロの音楽家だと感心した。

実はコバケンも「ボェーム」が大好きで、ルドルフとミミのアリアが続くところは最大の聞かせどころだが、我が家でそのルドルフのアリアのさわりをコバケンのピアノ伴奏で歌ったことがある。演歌は1週間ほど、ニューミュージックでも2-3週間ほどの時間があればそれなりに歌えるようになるが、オペラのアリアはプロでも数カ月かけて勉強する。きちんとレッスンを受けなければ、素人は何年かけても歌いきることができない。
余談になるが、コバケンが弾き語りする「悲しい酒」(美空ひばり)は手が込んでいて、途中の語りはドイツ語になる。コバケンは歌うことが好きで、歌心がある。歌詞を非常に大切にして、詞に合わせて、歌に表情を付けていく。小林少年は14歳の時にサトーハチロウの詩「藤棚の下に」をピアノ曲にした。これは文部省唱歌のように淡々と歌ってはいけないし、もちろん朗々と歌ってもいけない。だから、コバケンはこの曲をピアノ譜にせず、弾き語りで聴かせる。表情を付けて、「悲しくも懐かしくもある」この詞を歌いあげる。
これほど歌唱に拘るから、歌手にたいする小林の評価は非常に厳しい。どんなに声が良くても、単調にしか歌えない歌手は失格のレッテルを貼られる。和太鼓を叩く場合も、同じ調子で初めから最後まで打ち通すのではなく、相方とのリズムを変えてヴァリエートすることで、太鼓の乱れ打ちすら歌になっていく。交響曲を作り上げていく作業も、基本的にこれと変わらない。このコバケンの「歌心」こそが、小林研一郎が曲を作り上げていく重要なエセンスの一つなのだ。

第一回ブダペスト国際指揮者コンクール
 クラシックが盛んなハンガリーであるが、第二次大戦後の若者のクラシック離れは著しい。クラシックの人気回復も図って、1974年にハンガリーは国際指揮者コンクールを企画した。最初の国際コンクールということもあって、ハンガリーはお金と時間を惜しまず、コンクール開催に力を入れた。ハンガリー国営テレビ(MTV)主催で、ハンガリー国立フィル音楽監督である巨匠フェレンチック審査委員長のもと、オーストリアやドイツの著名音楽家を招聘して、1ケ月近い長丁場の国際コンクールが挙行された。指揮者のみならず、ソロの演奏家を目指す若手音楽家にとって、国際コンクールでの受賞は音楽家生命を左右する。コンクールの受賞歴がなければ仕事がもらえないのがこの世界である。
 1974年のハンガリーは、TVが国民に普及して間もない時期で、TV鑑賞が唯一の娯楽と言っても良い時代。夜のゴールデンアワーをふんだんに使い、第1次予選から最終第4次審査の様子が、毎夜、国営テレビで放映された。多くの家庭では、両親とともに子供たちもこの面白いコンクールに見入るのが日課になった。国際審査員14名が20点の持ち点で若い指揮者の指揮振りを評価し、最高点と最低点をカットした12名の評点が加算され、電光掲示板に表示される。まるで体操競技でも見るような光景である。TVの前で皆、一喜一憂して、このコンクールの模様を楽しんだ。
 ヨーロッパ各地から参加していた若手指揮者を押さえ、クラシックの世界からほど遠い国からやってきた小林研一郎が、第1次から最終第4次審査まで、すべてトップで通過するという快挙を成し遂げた。この詳しい模様は、小林研一郎『指揮者のひとりごと』(騎虎書房、1993年12月)に詳しい。優勝の日から小林の指揮者人生が、大きく回り始めた。小林はハンガリーが生んだレジェンドになっただけでなく、指揮者としての格を得ることになり、指揮者としての本格的な活動が始まった。

レジェンド
 こうして小林研一郎は指揮者としての本格的な道を歩むことになり、他方ハンガリー人にとっても小林研一郎は記憶に深く刻まれたレジェンドになった。フェレンチック亡き後の国立フィルを継いだ小林研一郎は、1987年から音楽監督を10年務めたが、この後継者選定には3年の時間が必要だった。オケのメンバーによる小林就任要請の嘆願書を、ハンガリー政府が受け入れるのに、これだけの時間がかかった。ヨーロッパの伝統あるオーケストラを、クラシック世界とは程遠い日本人に任せるには、それだけの決断が必要だったのだ。
 小林の前に指揮者として国際舞台で活躍できた日本人は、小澤征爾しかいない。ソロの演奏家で国際的に活躍してきた人はそれなりにいるが、指揮者となると非常に限られる。それはサッカー監督が置かれて状況に似ている。いかに本田や香川が活躍しようと、また日本のサッカー指導者が欧州リーグのチームを率いることは難しい。本場欧州のレベルと日本のレベルにはまだ超えることのできない大きな壁があり、個人としてそれを突破できても、組織を束ねる指導者としてこの壁を突破することは難しい。小沢や小林は音楽の世界の大きな壁を乗り越えて、世界の最前線で勝負している音楽家なのである。このことを理解できる日本人は少ない。
東洋から来たクラシックと縁のない国の音楽家が、本場の有望株を押しのけて、どうしてクラシックのメッカでレジェンドになれたのか。本場の専門家を唸らすものがあったからに違いない。
ヨーロッパの常任指揮者や音楽監督にとって、コンサートは練習の延長上にある。だから、日ごろの練習やトレーニングに精力的に取り組むが、コンサートの指揮者としての動作が重要視されることはない。日ごろの練習がオーケストラの技量を上げる基礎になるから、それがしっかりしていれば、コンサートで無駄な動きをする必要はないというのが、指揮者にたいする常識的な考えである。
これにたいして、小林はオーケストラの技量の向上を自分の課題と捉えておらず、オーケストラの既存の技量を前提にして、そこから限られた時間でコンサートへと導くのが指揮者だと考えている。その意味で、常任指揮者というよりは、客演指揮者として当該のオーケストラの技量を最大限に発揮できるような作品形成を考えている。小林にとって、コンサートは指揮者がオーケストラと融合して、生きた音楽を作り上げる場なのだ。したがって、小林は短期間のリハーサルの最初から、感情移入しながら自らの「歌心」を伝え、オーケストラに指示を与えていく。指揮者が感情込めて指揮することで、オケのメンバーの演奏意欲が掻き立てられる。しかも、類稀なるタクト捌きが、感情移入を加速する。指揮台を自在に動きながら、時には小さく飛び上がり、体全体で指示を表現する。オーケストラにとって、このような指揮者と共演することが演奏の楽しさや喜びを生みだす。いかにオーケストラの技量があっても、単調に演奏すれば、つまらないものになってしまう。オーケストラを構成するのも生身の人間だから、やはり彼らをやる気にさせて、百%の能力を引き出すような指揮が、ライブのコンサートには必要なのだ。
 国立フィル音楽監督としての小林の役割については評価が分かれるところで、音楽監督を辞任してからここまで、国立フィルとの関係が疎遠になり、それが小林のわだかまりになっていた。それはともかく、小林の登場によって、ハンガリーではクラシック・コンサートに通う人が確実に増えたと言われる。ライブコンサートの楽しさを体感させてくれる小林は、並みいる指揮者の中でも、特別の地位を確保している。まさに、本場の指揮者が忘れたものを、クラシック音楽のメッカから遠く離れた東洋から来た日本人が改めて気付かせてくれたのだ。

記念コンサート
 今年は小林の受賞40周年に当たる。それを記念する7つのコンサートを、ブダペストと地方都市で開催した。
私にとって、コバケンの祝賀企画はこれが三度目である。1994年には、ブダペストにオープンしたケンピンスキーホテルの大広間で、国立フィルのメンバーの余興演奏を中心に、音楽家や関係者を集めてデビュー20周年を祝った。ちょうどコバケンとともに演奏旅行に来ていた早稲田大学グリークラブにも参加してもらい、350名ほどの音楽仲間で、大広間が埋め尽くされ、午後7時から深夜まで楽しい演奏会が続いた。この模様は当地のDuna TVの50分番組として、繰り返し放映された。
 2004年には、ハンガリー科学アカデミー本部大講堂で、デビュー30周年の記念コンサートを開いた。この時は国立フィル・メンバーの室内楽、コチシュ・ゾルタンのピアノに加えて、ハンガリー・ラジオ児童合唱団、ハンガリーで活躍する日本人音楽家が演奏した。およそ650名の招待客だけのコンサートだった。
 そして、今年の40周年である。用意されたプログラムは、「コバケン」18番中の18番、コバケン・ワールドが実感できる合唱曲のオンパレードである。10年以上ものわだかまりを越えて、国立フィルとの共演が実現したマーラー「交響曲第2番」(国立フィル、リスト音楽院ホール)、オルフ「カルミナブラーナ」(ハンガリー・ラジオ・オーケストラ、芸術宮殿、ペーチ・バルトークホール)、ベートーヴェン「交響曲第9番」(リスト音楽院学生オーケストラ、リスト音楽院ホール)、ベートーヴェン「交響曲第3番」(ジュール・フィルハーモニィ、ジュール・リヒターホール、ショプロン文化会館)、ベルリオーズ「幻想交響曲」(MAVオーケストラ、リスト音楽院ホール)。
最後のコンサートでは、小林作曲「パッサカリア」から「夏祭り」をアンコール演奏して締めた。これは小林がオランダと日本の通商400年を記念して、オランダ政府から委嘱されて作曲したものである。幻想交響曲を終えたMAVオケの打楽器と当地で活躍する和太鼓グループ(清帰途太鼓)の競演で会場は最高潮に達し、盛況のうちに記念コンサートを終えた。
さすがにハンガリーでも、クラシック・コンサートの聴衆の平均年齢は高かった。オーストリア国境に近いショプロンの小さなホールに集まった聴衆の平均年齢は60歳を超えていた。地方都市のコンサートでは、ハンガリーのデビュー当時のプログラム冊子や写真を抱えてくる婦人たちが多くいた。各オーケストラには40年前のコンクール時のオーケストラの団員だった演奏者が少なくとも1人はいた。その彼らもこのコンサートを最後に、現役から引退する。ハンガリーの音楽ファンにとっても、オーケストラの団員にとっても、「コバケン」は若き日のアイドルなのだ。
ハンガリーでは小林レンジェンドが親から子へ、子から孫へと語り伝えられ、いまだにその人気は衰えを知らない。

小林研一郎

音楽文化への理解
 ハンガリーの経済状況は厳しい。だから、どの音楽学校もオーケストラも資金繰りや経営に苦労している。幸い、政権が変わっても、クラシック音楽の核を形成しているオペラハウスや国立フィルへの支援は変わらないが、民間企業に頼っているオーケストラや地方自治体が抱えるオーケストラの状況はきわめて厳しい。そういう状況のなかでも、小林コンサート開催への意欲は非常に強い。
 小林研一郎は2010年にハンガリー文化大使の称号を得た。ブダペストのコンサートでは、常に首相や大統領、文化・教育大臣などの姿を見かける。今回は総選挙とぶつかったために首相の姿は見えなかったが、大統領夫妻はコンサートに出向いただけでなく、大統領公邸へ小林夫妻を招待され、音楽談義に花を咲かせた。
 MAVオーケストラはいわゆる「ハンガリー国鉄」が抱えるオーケストラである。大阪で行われた「三大テノール」や横浜での「フジコ・ヘミング・コンサート」にオーケストラとして出演している。ハンガリーのオケは技量があり、西欧のオケのような高額報酬を支払わなくても良いから、こういうキワモノ的なコンサートに駆り出される。
1989年か1990年だったか記憶は不確かだが、團伊玖磨さんがハンガリーを訪れた折、オペラハウスに同行した。自ら作曲されたオペラの西欧公演のために、ハンガリーのオペラオーケストラに演奏を依頼されたのだ。航空運賃やホテル代込みでも、現地のオケを使うより安上がりで、楽譜を事前に渡しておけば、短期間のリハーサルですぐに演奏に入れるからと話されていた。
ハンガリー国鉄の経営状態は良くなく、日本だったら真っ先にリストラされているところだが、なんとか伝統あるオーケストラを維持している。記念コンサートが終わったところで、ステージで国鉄総裁から長年のMAVオケへの貢献から「総裁賞」が授与された。「今後とも、MAVオケへのご支援をお願いします」というコバケンの謝辞に、会場から大きな拍手が沸き起こった。

文化的価値を知る
1994年の20周年記念パーティ、2004年の30周年記念コンサートには、当地の商工会加盟各社代表のほとんどが夫妻で参加した。今回も、日本商工会から記念コンサートへ寄付をいただいたが、残念ながら7つのコンサートに商工会加盟企業の代表の姿は見えなかった。この20年の間に、商工会加盟企業の構成(商社中心から製造業中心へ)が大きく変わったこともあるが、なんとも寂しい限りである。
 日本から派遣されてくる最近の日本人社員の多くはクラシックに関心がない。薄っぺらな娯楽が蔓延している日本の文化状況を考えれば、仕方がないことかもしれないが、多くの日本人ビジネスマンは「ハンガリーには日本のような娯楽がない」と嘆く。日本に蔓延している娯楽は文化の範疇に入らない。赴任した国がもっている最高の文化的価値を知り、それを楽しむ余裕がなければ、ハンガリー、いや欧州に赴任してきた意味がない。欧州に赴任しても、趣味はカラオケとゴルフというのは情けない。こういうことを教えるのも、会社のトップの役目であるはずだが、日本企業にはそういう精神的余裕は見られない。文化的素養がなければ、日本の企業人は国際人として認知されないことを、もっと本社の役員は知るべきだろう。
 赴任した国や地域の最高の価値を吸収するという貧欲さは、新しいビジネスを展開する能力とも密接に関係している。目先の仕事や利益に埋没してしまうのではなく、未知の価値を積極的に探り、我が物にするという姿勢こそが、国際人として持つべき姿勢でなければならない。そうでなければ、一介の社畜に堕するだけである。
一言付け加えておけば、コンサートでは駐在員のご夫人たちにお会いすることができた。ご婦人たちの方が、新しいものを吸収する能力がある。ご主人たちも奥方たちに学んで、新しいものに目を向ける努力をするべきではなかろうか。ハンガリーが生んだ最高傑作の一人、コバケンをハンガリーで直に見て感じることができるのだから。

盛田 常夫-“ドナウの四季”(在ハンガリー邦人の季刊誌)編集長

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輝く真珠! ドナウの名門
ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団

小林研一郎

[公演日程]
6月23日(月) 19:00 サントリーホール
指揮:ゾルタン・コチシュ ピアノ:金子三勇士
6月26日(木) 19:00 サントリーホール
指揮:小林研一郎 ヴァイオリン:千住真理子

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